孤独であるということ


孤独だ。人は、果てしなく独りだ、と常々考える。



例えば。
自分だけ不参加の飲み会。既読にならないLINE。過去にはもう戻れないと気付いた日。時計の秒針をBGMに眠る夜。そして今。




人は1つの個体として産まれてきた限り、孤独であることは天命であり宿命なのだ。人が人と関わる意味とは「孤独ではないと自らに言い聞かせるため」ではないか。
仕事をすれば誰かの役に立つ、友達と会えば楽しくなる、恋人と会えば満たされる、家族と過ごせば愛される。それがあたかも当たり前の事のようであるが、そもそも全ては一人ひとりの「誰かとつながっていたい」という願い(ある種のエゴ)で出来た固定概念のようなものではないだろうか。
人は本来孤独であり、1人である。生きるも独り、死ぬも独り。





深夜2時、もう全てが嫌になってこのままベッドで寝てしまいたいけれど、化粧を落とさないと肌が荒れるし、スキンケアしないと乾燥してしまうし、お風呂に入らないと汚いし、ああ、後はストレッチをしないと浮腫んでしまうし、ああ、後は、後は、後は………。
何かの工程を抜かせばもう絶望だ。そんな風に毎日生きる。それに疲れてしまった。完璧主義だと言われるが、それは半ば強迫観念のようなもので、常にこうであるべきだという自分の像が後ろから生活を見張っている。
もういいじゃないか。浮腫んだって肌が荒れたって。そう涙ながらに訴えることすら諦めてしまった。
1人なのに、なぜ戦っているんだろう。誰と戦っているんだろう。
出来ることなら欲望に忠実に生きたい。食べたい物を食べて好きなことをして過ごしたい。でも、そんな自分に価値はない。みんなに必要とされてこその価値なのだ。
孤独はそんな夜にふと、現れたりする。
なぜ人は本来孤独なはずなのに、価値を求めるのだろう。
今の自分の価値は若さだ。
若さはもう戻らない。この瞬間も、自分の若さを浪費しながら生きている。そんな自分に嫌気がさし、結局軋む体を無理やり伸ばして洗面所へ向かう。




孤独を知ると後はもう、奈落だ。
全員消えれば良い、いやそうじゃない、それよりも自分が消えた方が手っ取り早い。寂しい。切ない…辛い。


鬱病を患っていると、人の気持ちはグラデーションになっていることを痛感する。
寂しいの一言で片付けられないほど、明かりの一つも灯っていない真っ暗闇にいる気分になることがある。そこでは身動きを取ることもできず、助けを呼ぶこともできない。寂しいや孤独を通り越した、最早恐怖と呼ぶべき感情だ。ただ、ふと灯りが見えることがある。それが本当に小さな蝋燭のもののようなこともあれば、焚き火くらいの灯りのことも。そんな仄かな灯りが点ることを、暗闇でただ願う。



それでも、残酷に時間は過ぎる。そんなことを考えている間に夜は更けるし朝日は上る。


もう許してくれ。もういっそ、暗闇のなかに閉じ込めてくれ。そうすればきっと何れ目は慣れるし生きていける。明るい世界を知りたくないんだ。もう奈落に落ちるのは辛いんだ。お願いします。もう私、きっと十分頑張った。生きていく自信が、輝く未来が、もう私には見えないんです。
神様、どうか。





明日の朝、私の暗闇に小さな灯りが灯っていることを願う。