舞台「染、色」の記憶を残しておきたい


正門良規君が初座長舞台を務めた「染、色」。


無事に千秋楽を迎えたので、思い出をここに残しておきたいと思います。


カーテンコールを終えた時の感想は、勿体ない、忘れたく無い、今のこの感情を消し去ってしまいたく無い!でした。
それくらい、混沌としてて、複雑。終わった後の心の摩耗感というか、何かを擦り減らしながら観ていたような気がしました。



私の記憶もまちまちですし、私の頭では到底鋭い考察をする事も出来なさそうなので、これは飽くまで「染、色」を見た1オタクの"感想と個人的解釈"です。なので色々間違ってることもあると思われますが、優しい温かい目で読んでいただけると幸いです。
そして誰かが少しでもこういう解釈もあるのね、と、「染、色」を違う視点で捉えられたらより幸いです!


また、私の記憶力は鳥並みに低いです。その中で探り探りかいているので台詞等は悔しいけれどニュアンスです。なんとなくシーンを思い浮かべてもらって、違うところがあったらご指摘いただきたいです。



そしてそして本題に入る前に。私は原作未読のまま舞台を鑑賞したので、原作と関連付けた話は一切ございません!これは「染色であって染色でない」舞台だと伺ってたので、ファーストインプレッションは舞台でありたいというオタク心です。ご了承下さい。勿論読みます。読みますので。そこのあなた、怒らないでくださいね。



以下ネタバレ含みます!公演は終わっておりますがいつか映像化を願ってる方はここでお控えくださいませ…。
(追記)7月に配信が決まりましたね!!!!!配信ご視聴予定の方は各々の判断でご覧ください!









  • 真未の存在について
  • 「本物」とは何か
  • 杏奈の心情について
  • 深馬はどんな人だったんだろう

①真未の存在について


黒ずくめの服を着た謎の女、真未。
皆さん戸惑いましたよね?少なくとも私は死ぬほど戸惑いました。


深馬の人生を、たった一本のスプレー缶で染め上げ、決して消えない色を残す存在です。



美大の油絵学科に通う、成績優秀な青年、深馬。
自分の作品に不完全燃焼感を抱きながらも大学の展覧会に出品し、友達に「どこがいい?去年のとどっちが好き?」と質問責めをしていました。対して面接前で緊張しているというのにわざわざ大学まで足を運んでくれた彼女である杏奈が感想を嬉々として述べると、それを「ありがとう」とぶっきらぼうに遮ります。

そんな深馬の作品に色を足し、ある種完成させたのが真未でした。

高架下で深馬が徐に書いたスプレー缶の落書き。次の日に起きたら完成された作品になっていました。それを書いている人間の存在を感じ、探し始める深馬。自分の落書きが完成しているのを見たその表情は、怒りにも見えたし、救いにも見えたし、なんなら笑ってましたよね。この時点では展覧会の絵を付け足した人物も、落書きを完成させた人物も真未であると言うことは知りませんでしたが、出会う前のこの時から深馬は既に真未という存在に囚われ続けていました。


白い線が恐竜の化石の絵に。ただの丸が女性が寝転ぶ絵に。雑なタッチの花が白く燃える華になっていました。


ある日真未を捕まえ、話をします。
そして真未はなぜ作品を完成させないのか?と問いかけます。深馬はきっと図星で、感情を露わにしてお前に何がわかるんだ、そこで見ていろ、と伝えスプレー缶を手に取り、山羊の絵を書こうとしましたが、結局最後まで書けずじまいでした。そこに真未が色を加えたことにより深馬に火がつき、二人で山羊と蛇のグラフィティアートを完成させます。


真未の家に行き沢山話をし、壁のシミを二人で塗りつぶし、抱きしめてキスをして、深馬は真未と作り上げるグラフィティアートに没頭していきました。
二人は"ポリダクトリー"(多指症)という名で有名になっていき、深馬はどんどん明るく外交的な性格に変わっていくと同時に、作風も変わっていきました。


しかしある日真未が自分の大切な作品を壊していたことを知り、深馬は絶望します。

真未は言うのです。「深馬が頼んだんだよ?」と。
「私が深馬の自由になってあげようか。君は何にだってなれるんだよ、何にだってなれる」それが最後の台詞でした。


深馬は倒れて入院した後、自宅に帰ることをやめました。もちろん真未とはそれきりです。

そして春。深馬は、作品を壊していたのは自分であり、"ポリダクトリー"や"真未"は存在しないことを知り、咆哮の様な声をあげます。




ここまでがざっくりとした真未との出会いから別れです。なっがい。笑
結論、真未は存在したのか?していないのか?と言われると、私はしていないと思います。
 

深馬は彼女からも友人からも"掴めない人"と言う印象を受けている中、真未は深馬に何度も「分かるよ」「見てればわかるよ」などと理解を示す言葉を掛けます。そこだけ切り取れば真未は深馬の一番の理解者なのではないか?と思いますよね。でも、実はその言葉、全部真未がコントロールしているようにも思えませんか?



例えば深馬の友達の北見くんについて。
北見君は彫刻・立体学科で、粘土を用いて作品を作っていました。とても成績優秀で、だらしない所もありますが社交的な性格の明るい青年です。

真未は北見くんの作品を見て「何この中途半端な作品。こんなの小学生の私でも作れるよ?造形なんて練習すれば誰だって出来る」と批評します。
途中までは怒っていた深馬でしたが、どんどん言葉尻が小さくなり、その次の日には「もっと作品と向き合えよ!」と北見に激昂しているシーンがありました。
それまでは、冗談混じりで伝えることはあれど、深馬は他人の作品に対して感情を露わにするほど移入する人間では無いように私は感じていました。
真未が中途半端、と批評しなければ?才能があると批評していれば?そう思うと真未に一種の洗脳をされていたのではないか?とも思いました。



しかし真未はいなかった。少なくともこの物語の中では存在を消しています。私は存在しなかったと思います。



じゃあ真未は何だったのか?



おそらく皆さんが浮かんだのは「解離性同一性障害」、所謂二重人格と言われるものではないでしょうか。私はまずこれを思い浮かべました。
しかし、二重人格だったと仮定すると、真未という存在が深馬と違うところに在ったことに違和感を覚えます。二重人格だったら身体を同じくして真未が出てきたり深馬が出てきたりしてもおかしくない。でもそうじゃない、物語の中では真未は一人の人間でした。
連絡は出来ていたし、話すことも触れることも抱きしめることも出来ていましたよね。



幻覚なのか?はたまた精神病を患っていたのか?と色々調べた結果、私の中でしっくり来たのは「イマジナリーコンパニオン(フレンド)」と言うものでした。





以下Wikipediaより引用

通常児童期にみられる空想上の仲間をいう。イマジナリーフレンドは実際にいるような実在感をもって一緒に遊ばれ、子供の心を支える仲間として機能する。イマジナリーフレンドはほぼ打ち明けられず、やがて消失する





とどのつまり、「心の中にいる友達」みたいなものです。
真未は深馬に対し常に理解を示していたし、発言はほとんどが的を射ているものばかりでした。


普通なら幼少期に消失するとありますが、深馬の生い立ちは、地元の絵画教室で才能を開花させ幼い頃から上京して一人暮らしをしていましたよね。両親は共に地元へ残り、父はタクシー会社を経営していました。父が倒れても深馬は実家へ帰ろうとはしませんでしたし、母との電話の声色は明らかに高く優しい声になっていました。タクシー会社を継ごうかな、と電話先で呟くと、深馬の母は泣き、それを許しませんでした。


両親からの愛情は果たして十分だったのでしょうか?


もしかしたら深馬は精神的にとても幼い部分があり、それを表出できないまま大人になってしまった。そして作品作りに対して大きなストレスを感じた時に出てきたのが真未というイマジナリーコンパニオンだったのではないでしょうか。


真未は泣く時、赤子のようなヒステリックな甲高い声でギャンギャンと泣いていました。それももしかしたら深馬の深層心理にある子供の部分を真未が表現していたのかもしれません。





②「本物」とは何か?


劇中、何度か「本物」と言う言葉が出てきましたよね。


深馬は施設で暮らした過去を持ちながらも気ままに生きる真未に対し、「本物の自由を持っていて、本物の不幸を持っている真未に俺の苦悩はわからない!」と告げます。


本物の自由と本物の不幸って何だろう?
深馬は冒頭で、芸術について「何でもいいんだよ、面白ければ。」と話します。そこから真未と出会い、自分が自由だと思っていたものは学校や家族や法律に守られていた自由、つまり自分は籠の中の鳥でしか無かったことに気付きます。しかし本当に真未は自由だったのでしょうか?実際に真未は、「深馬は恵まれてるんだよ」とやや不愉快そうに伝えていました。


真未は絵を描くことは歩くことと同じだからやめることはできないと言っていました。真未はそれを自慢げに話していましたが、本物の自由は絵を描くことをやめる選択肢があることではないでしょうか?


真未の自由が本物の自由じゃないとするならば、自由とはこの世に存在しないことになりませんか?


人間は生きていると必ずなにかと制限があります。それは法律など規則などに限った話ではなく、モラルや価値観に囚われるのも一つの制限ですよね。じゃあ人は生きてる限り本質的な自由を得ることはない。

つまり自由こそが"死ぬこと"だったのかもしれません。


真未は作品の完成を"死"と表現します。人は自分の最期を見られない。深馬は完成することが怖いんだよ、と。

そこから深馬は作風が変わり、大学の恩師である滝川先生に作風についてこだわりを聞かれると「ちゃんと死ぬことですかね」と答えます。

そして最後の、自分が作品を壊したことを知ったシーン。「また最後まで死ねなかった…」とつぶやきました。
これは深馬が唯一持っていた、自由になるヒントを自らの手で壊していたことを知り、嘆いたのではないかと感じました。





話は変わり、滝川先生と原田の話に移ります。
ポリダクトリーに偽物が現れ、それを捕まえた深馬。フードを取るとそこには、恩師であった滝川先生がいました。
滝川先生は「何でお前なんだよ」と、自分の夢が深馬によって叶えられていくことに絶望していたことを伝えます。


過去に深馬は滝川先生について聞かれると、「シナモンみたいな、すごく存在感はあるけれどそれだけでは完成しない、脇役」と表現し、滝川先生になりたいかと問われると曖昧に微笑み、無言の否定をしていました。

滝川先生は深馬が「本物」になっていくことに憎しみや劣等を感じていました。
ポリダクトリーの「本物」になりきれば、それは「本物」になれる。滝川先生は脇役ではなく主役に、「本物」に固執している人のように感じました。
滝川先生が深馬に縋りつき泣いた時も、深馬はただ呆然と滝川先生を見下ろすのみで、彼に何をするわけでもありませんでした。


また、そこには同じ大学で友人の原田君が居て、その映像を撮っていました。
原田君は映像学科で、深馬や北見の創作風景を撮影し、ドキュメンタリーを制作している子でした。

彼は入学当初人間関係がうまくいかず、退学まで視野に入れるほど追い詰められていました。そこに手を差し伸べたのが滝川先生。信用できる人が大学にいなかった原田君は、優しく接してくれる滝川先生に恋をします。

滝川先生は、「深馬や北見といった成績が優秀な人と一緒にいれば、みんなが君を見る目も変わる」とアドバイスし、原田君はその通りに二人と友人になります。つまり、原田くんは滝川先生によって虎の威を借る狐になったのです。

滝川先生のアドバイスも、特別に3人にだけ部屋を貸していたことも、滝川先生が「本物」に対して劣等感を感じており本物になるチャンスを常に伺っていたことを知ればまた納得がいきます。実際に、深馬や北見の作品を事細かに分析している描写もありました。


話が逸れましたが、滝川先生は、自分がタグ、本作でいう6本指が生えた手形を残す姿を映像として残すことで、「本物のポリダクトリー」になろうとしており、その映像を撮る人材に抜擢したのが原田君だったのです。
原田君は「頼られて嬉しかったんだ。」と言いました。彼もまた、本物になりたかったけどなれないことを知っていた人だったのかもしれません。だから、「本物」になりうる才能を持つ深馬や北見を撮影することで、自分もいつか「本物」を撮影した「本物」のアーティストになろうとしていたのかもしれませんね。



③杏奈の心情とは


深馬の彼女、杏奈。彼女は大学四年生の就活中であり、時折リクルートスーツで出てきたり、面接シーンもありました。

深馬は、そんな杏奈を邪険に扱う時もあれば、縋るような声で電話をしたり、割と振り回していましたよね。


杏奈は就活中、「全然うまくいかなかったー!」と言っていました。実際、芯がないと言われたり、困ったら笑って誤魔化したり、まあ確かにうまくいってないわな…と思っていました。
就活は、企業を選別すると同時に企業から選別される立場にもなります。杏奈はESをとりあえずいろんな企業に送っていたようなので、選別されているという意識より強かったのかも知れません。そしてどんどん落とされていく不安。選別で残れなかった悔しさ。彼女は常に笑顔でしたが、きっと鬱屈した気持ちや焦りを隠していたのだと思います。彼女の家は幼い頃からシングルマザーで、母親も働きに出ていたため、誰かに甘える術をあまり知らなかったのかも知れません。


対照的に、先述した通りどんどん明るくなっていく深馬。杏奈は他の女の影を感じ、深馬の友人である北見に深馬の様子を探ります。そして真未とは違い、静かに涙を流します。


杏奈は常に深馬の前では気を使い、緊張しているようにも見えましたし、パンフレットにもそう記述されていました。それはおそらく、就活中の選別されている、という意識下で「深馬に選別から落とされたくない、嫌われたくない」という思いが常にあったんだと思います。誰かに必要とされることって意外と自分の心の支えになるし、逆に必要とされていないことは時に大きな絶望になります。


「好きだよ……私は」
杏奈のこの台詞は皆さん印象的だったんではないでしょうか。関係を終わらせようとしている恋人に好きだよ、と伝え、返事がない事を悟り自分で完結させる杏奈。これも一種の依存かも知れません。



そして就活が終わった杏奈は、真未の影を見せる深馬とどう接していくのでしょうか。
深馬が留年したことにより先に社会に出て、広い世界を見る杏奈は、これからも深馬と共にいられるのでしょうか。
最後に深馬が通話で伝えた涙混じりの「今から会いにいってもいいかな」に対して杏奈は何と答えるのでしょうか。原作で答え合わせを早くしたいです。



これはちなみになんですが、北見は常に深馬より杏奈の方を心配していましたね。深馬の存在はもちろん大切だったと思いますが、自分が女関係にだらしない割に他の女の存在を勘づくと怒りを露わにし、「杏奈ちゃん泣いてたぞ?!」と言っていました(深馬に杏奈と会ったのか?と言われ一蹴されてしまいましたが)。
劇中で告白するシーンなどはありませんでしたが、手を掴むシーンや言葉の温かみ、そもそも出会いが北見が声をかけたことから始まっていますし、パンフレットでも北見役の松島庄汰さんが「好きな人」と言ってらっしゃったのできっとずっと恋心はあったのでしょう。ちなみにでした。


④深馬とはどんな人だったんだろう


結局のところ深馬はどんな人間だったのでしょうか?


就活とか、課題とか、将来とか、夢とか、恋愛とか、そんな誰しもが抱えたことのある悩みを、深馬たちは同じように抱えていました。
真っ暗なトンネル。無限大の可能性に反比例する無力感。そんな色褪せた毎日が1人の女性によってぐちゃぐちゃに塗りつぶされてしまった深馬。


「今までは、怒りとか苦悩とか悲しみとかいう感情を芸術にできていたけど、それができなくなった。そしてそれに対しての不安さえない、ヤバいとさえ思えない」と滝川先生に漏らしていましたが、真未によって芸術へのモチベーションが"死"に変換されてしまいました。どんどんエネルギッシュになっていく深馬でしたが、真未は結局いなかった。深馬はアイデンティティを失ったとも言えます。


また、深馬は昔から絵を高く評価されており、美大も主席で入学しています。北見に誘われ遊んでいても、誰も気付かぬ間に作品を作り上げてしまう才能がありました。
どんどんと時が経つにつれ、自分の絵に納得できなくなる深馬でしたが、周りからの評価は変わらぬまま。〝これは自分の作品ではない〟と主張もできぬまま、自分と周りの温度感のギャップに苦悶していました。


そんな中真未だけは、深馬の生い立ちも、完成させない理由も「普通だね」の一言で終わらせてしまいます。
その時の深馬の顔は、特別だよ、と言ってもらえなかった落胆なのか、始めて理解してもらえた安堵なのか、どちらとも取れる表情をしていました。
対して杏奈は常に深馬に対しては絶賛し続けます。「凄いね」「いい絵だね」と。その言葉に安心する時もあれば、鬱陶しく思っている時もありました。


深馬は、自分は非凡でありたい、でも凡人でありたいという葛藤の中で創作活動をしていた様にも思えます。


自分の作品を後世に残したいけど、いつか否定されることが怖かったのかな。だったら完成させたくない、未完のままだったら否定されたって言い訳が効くから…ここらへんはちょっと記憶が曖昧なので完全に私の解釈です。





また、秋に咲く桜は、春にももう一度咲くのか?という話です。興味深そうに北見に聞いている姿が印象的でした。原田君が「それって…」と言っていましたが、その言葉の続きは「自分のこと?」と聞きたかったのかなあと解釈しました。


秋に咲く桜、つまりは季節を間違えて咲いてしまった桜。そして一度枯れた桜は、春になるともう一度咲くのだろうか。間違えたタイミングで評価されてしまい、創作に自信を失った深馬は、また評価される時は来るのだろうか。
桜に自らの姿を重ね、また咲くことを願ったのかも知れません。













ということで私の「染、色」の解釈&感想は以上となります。
本当はもっともっと色々あるんですけど記憶が曖昧で自信がありません。笑


真未は自身の腕にスプレーを振りかけることを「洗う」と言っていましたが、何を洗っていたのでしょうか?実際に脚本の加藤シゲアキさんがバーで見かけた女性が発案のきっかけとなったそうですが、その女性は何を考えていたのでしょうか?
また、服装も、最初は真っ白の服を着ていた深馬がどんどん黒い服装になっていったのも気になります。これも確信がないので深く言及できませんが、もしかしたら黒ずくめの服装をした真未の洗脳具合だったのかもしれないですね。



たった一本のスプレー缶で、たった一本の線で、たった一枚の絵で変わってしまった深馬の人生。



部屋の隅にあった紫色を見て最後に深馬がした咆哮は、はてさて絶望か?孤独か?憤怒か?



価値観を真未によって染め上げられた深馬はこれからどうやって生きていくのか?



〝何にだってなれる〟深馬は、一体これから何者になっていくのか?



先のことは何も想像できませんが、ただ登場人物がみんな幸せでありますように、と願うばかりです。






余談なんですけど、グラフィティアートについて少し調べたところ、グラフィティアートは壁に絵を"描く"のではなく、メッセージを"書く"要素が強いので、動詞は書くと表現する事があるそうです。なので今回のブログでは書くと表現させていただきました(間違ってるところがあったらごめんなさい)。
また、自分の存在をアピールするためタグと呼ばれる自身の存在を知らしめるサインのようなものを書く時代もあったそうです。名前を書く人もいるし、マークを書く人もいるし、今回は6本指がある手の縁取りでした。







最後になりましたが、座長の正門良規くんをはじめ、キャストの皆さま、演出の瀬戸山美咲様、脚本の加藤シゲアキ様、その他多くのスタッフの方々、東京グローブ座公演と梅田芸術劇場公演、計35公演、本当に心からお疲れ様でした。


正門くん、とっても堂々としてて、きっとこの作品はこれからの正門くんにとって大きな転機となるだろうなと思ったし、それを目の当たりにできた事、貴方のファンとしてとても誇りに思います。本当に本当に、お疲れ様でした。







最後になりましたが、深馬君へ。
秋に咲いて、もう一度春に咲く桜、あるみたいですよ。その一つが「アーコレード」という花で、品種名は〝賞賛・賛美〟という意味らしいです。


  


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以下参考・引用文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%25E3%2582%25A4%25E3%2583%259E%25E3%2582%25B8%25E3%2583%258A%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2583%2595%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2589
グラフィティの歴史や書き方を画像で解説!アーティストも | | Dews (デュース)
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